PRESIDENT加藤順彦
用意された承継の
レールに
懊悩する
学生時代
1967年4月、加藤家の嫡男:加藤 勝弘の長男として生まれた加藤 順彦は、1986年(バブル絶頂期)入学直後の関西学院大学で出逢った真田哲弥氏に導かれ、同世代を対象とした運転免許合宿の取次の起業に一員として参画しました。
1988年12月、家業:丸一興産株式会社の持株会社として設立した生損保代理店 有限会社ツネヨシ設立には株主筆頭として参画するも…関西一円に募った学生企業リョーマの仲間集めを通じて、商いを学ぶなかで用意された承継のレールに乗ることに懊悩します。そして1990年10月、在学中にも関わらず上京し、ダイヤル・キュー・ネットワークに出資/合流することを選択しました。
25歳、広告会社
有限会社日広を設立
同社はまもなく破綻するも家業には戻らず、1992年に25歳の自身が代表となり広告会社 有限会社日広(現:GMO NIKKO株式会社)を設立。雑誌広告専業で営むなか、インターネットと邂逅し取扱をネット広告に方向転換することで”ネット系”情報産業革命の萌芽と大躍進に立ち会うことになりました。
2006年に起こったライブドア事件によって、日広の経営基盤が痛むと同時に、それまで抱いてきたベンチャー生態系への信念が崩れたことが契機となり、同社をGMOインターネットグループへ譲渡する決意に至りました。2008年、投資参画先として開花しつつあったLENS MODE.PTE.LTD.を頼りシンガポールへ移住、2010年には永住権を取得しました。以来10年以上にわたって、シンガポールを軸にひろく東南アジアそして日本にてアジア視座で成長を期す若者の起こすスタートアップの資本と経営へのコミットメントを続けてきました。
「アジアのウミガメ」に
込めた意志
第二次世界大戦後60年以上にわたり右肩上がりだった内需経済成長に依存してきた日本がこれからも輝き続け成長を追うにはアジア経済の成長の尻馬に乗ることを目論むべき、との考えから、起業を志す若者に対し、中国では洋行帰りの起業家をウミガメと称賛することに倣い、「アジアのウミガメ」たらんと謳ってきた加藤 順彦自身。2017年5月の実弟 加藤 昌孝の急逝に伴って代表に就いたマルイチグループを率いることでこれを体現していく覚悟です。