HISTORY歴史
1945


鉄に生き、鉄に死すべく覚悟での独立
マルイチグループは、第二次世界大戦の敗戦間もない1945年10月、関西一円の鉄商が此処ぞと集った大阪は立売堀にて丸一商会として創まりました。見渡す限りの廃墟と焼け跡。壊滅した日本経済と荒廃混迷した社会情勢下、創業者(初代)加藤源太郎、ときに三十二才。鉄に生き、鉄に死すべく覚悟での独立でした。
当初は机一つの間借り精一杯の背伸びでの、中継ぎ口利きからの稼業です。開業から3年あまり…1948年12月に木造二階二軒続きの一軒(30坪)を土地付きで入手したのを契機に丸一興産株式會社に法人成りしています。1950~60年代は「鉄は産業のコメ」の威勢と御旗を担ぐ鉄鋼産業の生態系のなかで、商都大阪を舞台にその鋼材特約店(専門商社)たるべく、源太郎は新しき時代の天下国家のロマンと算盤そして手形を両の手に日々商いをつくり、黎明期を駆け抜けました。鉄の利益は国益であり、鉄の課題は国家の課題とされていた時期でした。

鉄鋼卸流通の一翼を担う
気概が込められた『産興一丸』
1967年4月、三菱商事系列の専門商社での修行から家業に戻った加藤勝弘(二代目)による東京営業所の開設の折に、全社に掲げられたスローガンは『産興一丸』。我が国の高度成長期の軸であった鉄鋼卸流通の一翼を担う気概を込め、源太郎と勝弘が掲げた咆哮でありました。奇跡とも云われた戦後日本の復興の状況下、多くの鉄構メーカー・ゼネコン・建築業者が必要とした条鋼を主力とする鋼材・特殊鋼材を商社(三菱商事→メタルワン、川鉄商事→JFE商事、住友商事が主軸)より仕入れ供給することが生業となりました。
1984年4月、大阪北港(此花工業団地)の伸鉄メーカー奥小路製鋼株式会社(現:株式会社ToGEAR MSC)との戦略的な業務提携を行うことで、鋼材(条鋼が主体)の一次加工から、広巾帯鋼(ワイドフラット)及び形鋼の精密切断加工、鉄鋼二次製品の流通まで一貫した商流を構築。総従業員数は50名を、年商は130億円を超えました。また1988年には勝弘の長男:加藤順彦を筆頭株主とした、法人個人を対象とした生損保の幅広いカスタマイズ企画販売を得意とする有限会社ツネヨシ(現:サンクチュアリ株式会社)を設立、のちに大阪府堺市へ拠点を拡充しています。
バブル経済の果てに
待っていた
苦難の道
しかしながら1990年代前半…Japan As No,1と云われた未曽有のバブル経済の果てに待っていたのは、国内の鉄鋼材の流通構造の大変化でした。幾多の困難をしなやかに乗り越え凌いだ果ての2010年3月、加藤昌孝(三代目)によって振られた大ナタは、祖業であった『鉄鋼卸、形鋼一次加工事業』の同業大手:三栄金属株式会社への譲渡・撤退でした。

創業75周年を迎えた
マルイチグループの新たな挑戦
その後の数年で常吉の工場設備を含む賃貸事業を軸に財務基盤を健全に回復するも、2017年4月に昌孝が急逝。家業を承継した加藤順彦(四代目)が各社の株式を、在住するシンガポールにて営んでいた二法人(現:ToGEAR PTE.LTD.、MARUICHI PTE.LTD.)で担うべく資本を再構築。あわせてグループとしての新事業領域として、マレーシアで他家/骨髄由来の間葉系幹細胞である金太郎細胞点滴の御案内、および理美容シザーのレンタル事業に着手しました。2020年10月に創業75周年を迎えたマルイチグループは、新たな産業を興すべく、一丸となって取り組んでいます。